天太玉命神社
ご祭神 天太玉命 大宮売命
  豊石窓命 櫛石窓命
鎮座地 奈良県橿原市
  忌部町字一之道153
 忌部町を東西に走る国道24号線のすぐ近くに南面して鎮座する旧指定村社。当社の祭神天太玉命は、斉部氏の祖神で『記』『紀』によると天孫降臨際の、天児屋根命とともに随行して、祭祀のことを掌って朝廷に奉仕したとある。その孫天富命も天種子命とともに、神武天皇に仕えて祭祀を担当して橿原宮の造営にも当ったが、当忌部の地に居住して一族の宗家となり、斉部氏を称した。
 その後、代々の子孫永くこの地方に土着、自らの祖先と斉部氏に縁故のある神霊をまつったのが、当社の起源である。
 大宮売命は天太玉命の御女で、本名を天鈿女命と称する。豊石窓命、櫛石窓命は同体異名の神として強力無双の手力雄命の別号で、天太玉命の御子である。後世この神を皇居の四方の御門の左右の鎮護として、豊石窓・櫛石窓命という二柱の神名を負わせて祭ることとなった。『三大実録』によると、「清和天皇貞観元年(859)正月廿七日、奉レ授二大和国従五位下太玉命神従五位上一」とあり、『延喜式』巻九の神名に「太玉命神社四座並[名神]大月次新嘗。」と名神大社で、月次新嘗に案上官幣に預かる神社と出ている。

 斉部氏と同じ祭祀のことを掌った中臣氏は、飛鳥・白鳳期以来政治上の実験を握って勢力を張ったのに対し、斉部氏は次第にその勢におされることになり、その氏姓も忌部と変えるようになった。平城天皇の御代忌部宿禰廣成は、『古語拾遺』録して朝廷に奉り、自家の顕彰を計ろうとしたが、家勢挽回の動機とならなかった。清和天皇のころ忌部宿禰高善は忌部の氏姓を斉部と改めたが、家勢ますます衰え、南北朝期以後は国史上斉部氏の氏人の記録全く途絶え、嘉吉のころには藤原氏を自称するようになったという。
 本殿は素木の千鳥破風付流造り桧皮葺の四間社で、箱棟はカラー鉄板で葺かれている。向かって左の境内社は春日神社(祭神・天児屋根命)で、素木の春日造り桧皮葺、殿内に「奉遷宮春日四柱大神 明治十一年寅四月十五日」等の棟札がある。右の境内社も春日造りで、建築様式は左の社と同じ。玉依姫神社(祭神・玉依姫命)で殿内棟札に「宝暦十二年壬午(1762)九月十五日」等とある。
例祭は十月十五日。 
 吉野郡大淀町奥越部の奥田氏宅の裏山には、当社の分霊をまつる太玉神社がある。数十年前までは往古以来、当社の正月用門松はこの宮山から納められる習慣であった。正月二日には忌部の当家が鏡餅と串柿栗蝦などを奥田家のこの宮に供えてお礼参りが行われた。
 境内の左方に明治二十七、八年戦後従軍記念に、在郷軍人四名が寄進した石の玉垣があり、中に境内社の岡本天王社の小祠がある。二段の石階上に、素木の春日造り鉄板屋根で、東面して鎮座する。正面の石燈籠に「岡本天王社 寛政九丁巳年(1797)九月」との刻銘がある。
土地では元一本木に鎮まった神社であったが、いつのころからか此所に遷座したと伝えている。
 『高市郡神社誌』に一本木が往時天石門別命神社の所在地であったことは「太玉命社記」や「五郡神社記」に明らかで、今岡本天王社と称する当社こそ式内社天石門別命神社の名残であるべきに、明治初年の神仏分離令で杵築神社と改称、素盞鳴命を祭神として今日に及ぶと記している。
 一本木は本社の東方曽我川の東岸にあり、俗に「一本木の塚」という。かつてここにあった社前を騎馬で過ぎる人があると神の祟りを受けて落馬したという。また、岡本天王社には、岡寺の龍蓋寺に詣でる者はまずこの社に賽すれば仏果必ずあらわれるとの伝承があったという。
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