八幡神社(桧垣本)

御祭神 息長帯日売命・誉田分命・大鷦鷯命

鎮座地 奈良県吉野郡下市町桧垣本小字定茂

    


● 阿知賀物語
 境内地三〇一坪の他、かつては周辺に四町一反五畝余の社有地をもっていた。
神域に入ると、広い参道が森の中を真っ直ぐに進むこと約100mで拝殿へと至る。

 当社は、宇佐八幡宮の分社として、天徳元年五月の創建にかかる古社である。

 本殿は高い壇上の玉垣内にあり、流造で千木鰹木がある。周囲をコンクリート塀が囲み、その上に有刺鉄線が巡らせてある。
 鎮守八幡宮縁起(寛保元年菊月朔日土田村浄見寺法誉書)には、当社が近郷七か村(阿知賀・下市・新住・下淵・土田・越部・新野)の惣社だったことや、吉野川洪水の時下市の丸山領から桧垣本幣振の合図で、当社を伏拝したと記している。

桧垣本と桧垣本猿楽

 室町時代、桧垣本を根拠地として猿楽座の一座が活動していました。猿楽は室町時代に隆盛した芸能で、現在の能楽の前身といえます。この桧垣本猿楽の一座は、吉野山や高野山麓の九度山などで神事能をおこなっていました。
 この一座からは数多くの優れた猿楽者が輩出しました。桧垣本七郎は室町時代のはじめ頃に「若い男」「若い女」(吉野町・勝手神社蔵)、「悪尉」(金沢市・尾山神社蔵)、「獅子口」(九度山町・河根丹生神社蔵)などの優れた能面を制作しました。また代々彦四郎・彦兵衛と名乗る猿楽者がいて、彼らは笛の名手として知られ、興福寺大乗院家へ参勤していたという記録も残されています。
 室町時代後期には、桧垣本次郎大夫国忠・与左衛門国広父子が活躍しました。特に国広は、織田信長の知遇を得たり、戦国きっての文化人であった細川幽斎の太鼓の師匠も勤めたりしています。活動の範囲を北陸地方へ拡大したのもこの時代です。この頃になると桧垣本猿楽は、単に吉野川筋のむらむらの祭礼や社寺の法会で神事能を勤める一座ではなく観世座とともに南都や京都の勧進猿楽の舞台で活躍する一座に成長していました。
 しかし、江戸時代になると幕府が能を式楽として統制を強めたため、桧垣本猿楽の当主であった与左衛門国広は縁戚の観世家に接近し、観世の名称を得ます。そして、一座は桧垣本の地を離れ、観世座の一員としての道を歩むこととなります。
 このように、ここに桧垣本は室町時代を代表する芸能である猿楽一座の根拠地であり、現在の能楽発祥の地ともいえるのです。
大淀町教育委員会

「若い男」面 桧材彩色

裏面に「明応二年」(1493)に桧垣本七郎が 制作し、信家なる人物が吉野勝手御前(勝手神社)寄進した」旨が刻まれている 吉野山・勝手神社蔵(吉水神社管理)
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