稲蔵神社
いなくら

鎮座地 奈良県生駒市小明町 
ご祭神 稲蔵大明神
   (生魂明神・ 大宮能御膳神)

 小明町の国道168号線に面して大きな石鳥居が建っている。一の鳥居をくぐり、住宅街を真っ直ぐに上がっていくと突き当たりに稲蔵神社の杜。

 稲蔵寺の略縁起に「因みに云ふ当山より丑寅の方五町ばかりにして稲蔵明神の祠あり、此れ古来稲蔵寺奧院と称し当山鎮守神を奉祀す。遠近の参拝者多し。」とある。

 稲蔵というのは、寺社名となっているが、もとの意味は磐坐であったと思われる。
 本殿横に烏帽子型の大きな磐坐が鎮座する。
烏帽子石<えぼしいし>と呼ばれ、高さ約6m、周囲約12mの花崗岩の巨岩である。
 稲蔵神社は石の神であり、大和高原の西麓に連なる石の上、三輪の山々と同じように稲蔵山は神奈備山であり、ここに明神を祀るようになったと考えられる。
 小明村の惣社氏宮としては生駒谷十七ヶ村を氏子にもつ生駒大宮と呼ばれる伊古麻津比古神社であるが、小明村の人々は稲蔵明神を村の鎮守としてあがめてきたので、稲蔵神社は稲蔵寺や小明村とともに、その歴史を歩んできたと思われる。
 稲蔵神社が現世利益の神として、特に兵隊のがれの神として多くの人の信仰を集めるようになったのは明治以後のことである。
 明治政府が懲役兵を発布したのは、明治六年(1873)であるが、当時の日本の多くの村々では、村の一番の働き者を徴兵により失うことは大きな損失であると考えられ、徴兵忌避の風が相当強かったようである。何とかして徴兵のがれをしたいと思い、稲蔵神社に徴兵のがれを祈願した人が多くあったという。
 兵隊のがれの神として明治十年(1877)の西南戦役頃から、世に知られるようになったらしい。明治二十七、八年と三十七、八年の二大戦役を契機として稲蔵神社の信者は急に増加してきたようである。

境内に密集する石碑群は、伏見稲荷大社
の『お山』の感じに似ている。

 一方では、武運長久を祈りながら、他方では兵隊のがれを祈る老若男女が大阪からはるばる稲蔵明神のもとにはせ参じたようである。
 信者が増加するにようになり、神社の整備にも力が注がれるようになったが、境内の鳥居、燈明台等々の多くが信者の寄進によってなされたようである。拝殿の改築、参道の改修などもこうした信者の寄進と小明村の人々の努力によって進められた。現在、境内や本殿の石囲として残っている寄進者の芳名碑は、新旧とりまぜ百三十四基ある。これらにより信者の住所を調べてみると、その大部分は大阪市である。
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