門僕神社
かどふさ


御祭神 天兒屋根命、武甕槌命、経津主命、
    比賣大神、玉祖命、天手力男命、天宇受賣命

境内社 四社明社 大國主命・大田命・市杵島比賣命
    八幡宮  応神天皇

鎮座地 奈良県宇陀郡曽爾村大字今井字見山

「曽爾の獅子舞」
 門僕神社は、今井の曽爾村役場の北方に当たり、曽爾川の西岸に鎮座する。社名は「カドモリ」「カドノフサ」あるいは門部と書いて「カドベ」と称した。創祀は不祥であるが、延喜式神名帳には大和国宇田郡十七座のうちに記載された古社である。
しかし当社の式内社としての由緒の考証はのこされている。祭神は門部に由来して火闌芹命といい『新撰姓氏録』には大和神別に属して門部連は神牟須比命の児なる安牟須比命の後裔であるという。門部延喜式によれば兵部連に属して、践祚大嘗祭の時に、左京各京・山城・大和・伊勢・紀伊の諸国から参集したが、各国は一人乃至三人であるのに、大和国は八人の門部を送っているのが注目される。
『惣国風土記』のよれば雄略天皇三年二月にはじめて当社に五十七束三毛の圭田を奉り神礼を加えたという。いつのころよりか祭神は経津主命・天津兒屋根命・武甕槌命・姫大神、外三神となり、当社は春日明神として崇敬され、明治の明細帳にまで記載された。よって神仏習合の節では、当社の神宮寺は春日寺と称し、垂迹は天津兒屋根命とされた。
 社殿は、井上幾松氏所蔵の旧記によれば、天文三年(1534) 北畠東門院殿及び井上越後守の助力によって造営に着手し、同年十一月二十八日竣工した。以来二十一年毎に造替して来たという。
 古老の伝えるところによれば、延宝七年(1679)四月に大造営をしたが同年八月に、大風雨のため社殿・拝殿・その他の建造物がことごとく破損倒壊して、棟札・諸記録は社前の曽爾川に流出したという。
 翌八年に鏡が奉納され、元禄・享保・天保の各年代にわたって石灯が建てられた。当社殿は延宝七年(1679)の洪水以後は現在の高処に建てられた。
 本殿は素木で神明造。明治十八年・昭和四年・同二十五年の各棟札を蔵する。殿内には土製彩色の衣冠男神像をまつる。

 本殿の向かって左方に若宮、右方に稲荷神社がそれぞれ鎮座している。何れも屋根板葺の一間社である。拝殿から本殿へは渡廊下がついている。
 当社の例祭は九月九日であったが、現在は体育の日の前日に執行される。当日は獅子三座が出御し、
氏子八大字のうちで、長野・今井・伊賀見の三大字の青年によって獅子頭を振り回し神楽を奉奏する。
 供物は各大字から供し、土俗に「すこ」と云って樋上の器に餅や柿を串にさす。餅と柿を交互に百個ずつ串にさして盛り上げ、その上に鶏頭の花を人頭に真似て造る。ほかに犬の舌・牛の舌と称する餅をその形に模して造り容れる。それらを祭典前に神前にならべる。
【曽爾村に伝わる獅子舞の話】

 曽爾の獅子舞は有名で、境内の立て看板にも下記のような説明がありました。
拝殿下には神使の鹿像も奉納されている。
 曽爾の獅子舞 
   曽爾の獅子舞は、天正11年以降の当屋文章の享保3年(1718)条に「御神楽獅子舞当年乃初五穀成代村安全のため(中略)於神前舞申候」とあり、俗説として「長野が伊勢で獅子を習ってきて他に伝えた」という言い伝えがあり、種目名にも習ってきた村の地名がそのままつけられた「中村の舞」があることなどから、ほぼこの頃より、伊勢の大神楽を導入し、地元の人々の手で始められたことが明らかになりました。
「神前の舞」「悪魔払」「参神楽」「獅子舞踊り」「接獅子」など一連の獅子舞は三大字(長野・今井・伊賀見)の青年の手で、第二次世界大戦といえども絶えることなく今日まで連綿として継承されてきました。その種類の豊富さと芸能の質の高さが評価され昭和54年3月23日「奈良県無形民族文化財」に指定されました。
曽爾村教育委員会
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