鏡神社
かがみ

ご祭神 天照皇大神
    藤原広嗣
    地主神

鎮座地 奈良県奈良市高畑町468
        (高畑福井町)


● 鏡神社の祭神は片目
● チマキをつくらない町
● 影清地蔵尊
 奈良市写真美術館の東側、新薬師寺の隣に鎮座。社伝に、遣唐使発遣の祈祷所たりし当地に、平城天皇御宇大同元年、新薬師寺鎮守として奉祀せられしとある。

 本殿について、記録に春日大社第四十七年次式年造替の延享三年(一七四六)に、本社本殿の第三殿を鏡神社へ譲渡したとあり、さらに昭和三十四年の本殿修理中には、屋根裏から「三ノ御殿」の墨書銘が二か所で発見されている。春日大社本社の旧本殿(一間社春日造、桧皮葺)であった、鏡神社の本殿は、当初の部材がよく残るとともに、移築の経緯も記録に残っていて貴重である。
拝殿
本殿
御由緒
 藤原広嗣公は、式部卿左大臣の長子で、母は右大臣石川麻呂の女であった。
幼きより文武の才に秀で管弦歌舞の道・天文陰陽の技に精しく、五異七能の才と謂はれたが、従五位大倭守を経て右近衛少将に上り、天平十年大宰少弐に任ぜられた。
 この頃、僧玄・吉備真備の両人唐より帰朝して寵遇蒙りてより時勢を得、特に玄は非行多く、僧にあるまじき所行が多かった。公の純清・剛直の性は之を黙視し得ず、同十二年上表して時弊を指摘し、君側の奸を退けられんことを乞うたが、上表後七日にして思ひもかけず官軍の攻撃を受けるところとなった。
 同年九月、已むなく兵を集めて遠賀郡に軍営を構へ、之を防がんとせられた。大野東人の率いる官軍に対して、筑後板櫃河に戦ひ、肥前長野村に於て因るゝ所となり、本意もなくも逆人の汚名を蒙って、詔未だ至らざるに非業にして松浦郡につみなはれ給ふた。その抗戦些かも戦意なく、義志遂に完うせられることなく、その後、公が怨霊の祟り屡々であったと謂ふ。
 公が憂慮の通り、僧玄は非行募り、勅堪を蒙って天平十七年に筑紫に配せられ、偶々観世音寺落城の式に臨むや急死を遂げ了った。世人は之を広嗣公の祟りの故とした。
真備も亦、孝謙帝の御宇肥前に左遷せられるに際し、鏡尊廟を建てゝ、義しき公の威霊を祀り、御世鏡宮・板櫃社と称せられて、永く松浦明神三座の一として崇めたのである。
 
 広嗣公の憤死以来、霊神信仰漸く世に顕れ、井上内親王・火雷天神・吉備内親王・他戸親王・早良親王などと共に、公も亦平安京の上下御霊社に鎮斎せられたのは著聞の事であり、八所御霊即ち之である。公の威霊を祀った社は、もと頭搭山の附近福智院(平城清水寺)の境内に玄の弟子報恩により崇められ、その創建は天平年間であった。玄首塚の伝へ及び吉備塚(旧聯隊内)俊寛塚などの遺跡が近傍に在り、公の威霊激烈なることは、かの頭搭山に於いて、玄筑紫に急死するやその遺体奈良の地に飛散して興福寺境内に落ち、首は頭搭山に、腕は肘塚(かひな)町に、眉と眼とは大豆山(まめやま)町に飛来したとの口碑が伝へられている。之は、広嗣信仰が背後にあったが故である。これらの史伝によって、古代の清烈剛毅なる至情徹らざりし叙事詩的な公の悲痛の生涯が想はれる。

 現社地は、公の邸宅址とする伝へもあり、天平時代後期新薬師寺復興の際、その鎮守神としてここに勧請せられた如くであり、末社火雷天神は、不空院(福井の大師)境内にその御陵(御霊?)があるのを配祀したものと思はれる。
 その後里人この二神清純凛烈たる威霊を氏神と仰ぎ崇めて久しく、茲に壱千百五十余年を奉斎し来たった。祀職は、春日若宮禰宜家の祖梅木末春の一系が仕へ、併せて四十三代に亘って奉仕し来たり明治維新に至る。


伝説
 桓武天皇御宇延暦二十三年、弘法大師入唐して帰朝の時、松浦明神の加護により風波が静まったので感銘した大師は大同元年帰朝の時山階寺(興福寺)の庭中に松浦明神を奉斎し鏡大明神と号したという。(元要記)
【鏡神社小誌より引用】
天神社(本社内・末社)ご祭神 火雷天神

末社 祖霊社 歴代の氏子内功労者を祀る
          昭和三十六年十月創祀

 別社に式内赤穂神社(高畑町1320)摂社に
比賣神社(高畑町)が鎮座する。
 
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