紀道神社
鎮座地 和歌山県日高郡川辺町三百瀬1188 |
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社伝に、もと紀道明神と号し、道成寺建立の奉行・紀道成を祀るとあり、古くは日高川河岸の字紀道芝に鎮座していたが、元和六年(1620)とその後の日高川洪水で流失。紀道芝から現在地の宮の平に遷座(年代不明)され、神社の傍らに神宮寺・養専寺を建立したが、間もなく火災にかかり延宝五年(1676)に再建されたが、養専寺は廃退したとおぼしく、享保十年(1725)の「社方書上」江川組には、その記載はない。 |
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拝殿横に掲げてある由緒書によると、 |
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| 『紀伊俗風土記』には、村の東にあり三百瀬・伊藤川・藤野川・平川四箇所村、及船津四箇所の産土神なり。又船津明神といふ。祀る神詳ならず、紀道は地名にして木戸の義ならん。社より東南、藤野川の谷に傍ひたる道に巌狭をなして木戸口といふ所あり、道成寺を草創せし紀道成を祀るといふ縁起あり、近世の作にして取るに足らず、社の後の日高川の岸壁立せる石を御膝石といふ。舟に乗るもの甚懼《はなはだおそ》れて此地を避く。相伝ふ社旧北面にして川に向ふ。御膝石の名因りて起れるならん」と、祭神紀道成説を否定している。 | ![]() 左 村社 船着神社、右 紀道神社の石碑が並ぶ。 |
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また『日高郡誌』は『紀伊風土記』のこの説に、「謂ふ所の縁起には道成寺第一四世四位法印大和尚盛海寄附とありて近世の作には相違なけれど祭神については尚、考究の余地あるべし。伝え云ふ当社の神像は奈良時代の公卿が衣冠装束せる立像木造なりと」なお一考の余地ある旨を記している。いずれにしても当社は古来、紀道明神とも船津御前あるいは船着神社とよばれ、日高川と縁の深い水神ではないかとも考えられる。社号も明治五年(1872)、船着神社と改称し、同四十一年、二年(1908-1909)ごろ氏下の諸社を合祀し、更に昭和四十五年(1970)、紀道神社と改めた。 | ||||||||||||||||||||||||
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| ● 樟《くすのき》をきらう神様 三百瀬の紀道神社は、明治五、六年ごろまで紀道明神とよばれていたが、このお宮の境内へは樟を植えぬことになっているし、もし植えてもすぐ枯れるといわれている。 かつて昭和天皇がまだ皇太子であられたころ和歌山県へおいでになった時土地の青年が記念樹としてお宮の境内へ樟を植えたが、間もなく枯れたことがある。 ここにお祀りしているのは道成寺を建てた紀《きの》道成である
遠い昔、文武天皇に道成寺建立を命じられた藤原(紀)道成が、その建築用材にするため、今の中津村船津で伐った樟を筏に組んで下だすのを指揮していたが、折りからの増水で道成の乗っていた筏が、淵に突出していた大岩にぶつかり、乗組員とともに道成も水死した。 その霊を弔うため、その淵の上の山に建てたのが紀道神社という。神社はもと北面して都(奈良)の方を向いていたので、筏のぶつかった大岩をお膝石《おひざいし》と称し、その付近をおひだと呼んでいる。今でもその岩に道成の血がついていると言って筆者の子供のころはその淵で泳ぐのをさけた。なお道成寺の名称は紀道成の名をとったと伝えている。 (『南紀土俗資料』・筆者) |
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