北山宮
きたやまぐう

鎮座地 奈良県吉野郡
    上北山村小橡(ことち)字谷口807

ご祭神 北山宮(尊秀王もしくは自天王)
 栃本集落の南に鎮座する旧県社で吉野神宮境外摂社北山宮は、後亀山天皇立孫といわれるが当地方では尊秀王または自天王、一の宮と称する。
 神器(玉璽)を滝川寺に奉じて後南朝の復興を図られたが、長禄元年(一四五七)十二月二日赤松の残党に襲われて討死。変後この地方民や遺臣は宮を追慕して祠を造営した。

 北山宮を祀る北山神社はもともと「若一王子宮」と称していた。熊野信仰につらなる十二所権現の一つである。江戸中期から北山宮に対する信仰がたかまり、維新の際「其筋より祭神自天王と称する事申渡され」(吉野名勝誌)明治二十六年官幣大社吉野神宮境外摂社県社北山神社となったものである。

境内の立て札より

 北山宮 吉野神宮境外摂社

御祭神 北山宮 後亀山天皇玄孫

由緒 北山宮は後亀山天皇御曾孫尊秀王の御子にまします 嘉吉三年(一四四五年)九月 父王比叡山に薨し給ひし後遺臣神璽を王子に奉り 吉野北山荘に擁護十時に嘉吉の乱に滅びし赤松氏が 餘党主家を再興せんとして詐り 長禄元年(一四五七年)十二月二日夜半大雪に乗じて丹生屋帯刀左衛門 同四郎左衛門守兄弟北山の御産所を犯し 王子を殺し奉り神璽を奪い御首を奉持して逃る 郷民之を追撃して伯母谷にて両名を討ち 神璽御首を取返し御遺體に合をし 御産所(ご出産所を佛祠となし〜あと判読できず後苑に奉苑す 門島彦太郎上月満吉中村貞友等 北山郷と期を合せて河野宮の御産所(川上村神之谷)を襲いて弟宮も殺し奉り 貞友御首を奉持して這るも 郷民塩谷に要撃して御首級を取返し御産所(神之谷金剛寺)の上に葬り奉る神璽は 南朝皇族護らせ給いしも 翌年八月赤松が残党小寺藤兵衛取出し京都へ奉れり 茲に遺臣郷民悲憤し 且宮を追慕する事急にして 翌年十二月此地に祠宇を建て 心を王子に竭して諭らす子孫相傅して 五百幾星霜を経ぬ明治三五年一月 吉野神宮境外攝社に列せられ 同四五年一月附北山宮御墓所決定と共に御事跡は愈々明覈を得て 大正十一年三月四日村社より県社に昇格し 昭和三一年に北山宮と改められる 
 延宝検地では「除地九畝歩拾八間拾五間村中氏神若一王子宮地、境内社有之」とあり、文禄検地であったと記している。明治二十六年北山神社と改称、今は北山宮という。

 例祭は十二月二日と北山宮受難の日に定められていたが、今は十一月十五日。
 本殿は三間社銅板葺の流造で、三〇年毎に改築される。北山神社は本殿、拝殿、宝庫などの整った社殿を持つ。文明十四年以降度々の造替を経ている。本殿は一間社流造、銅板葺、周囲に瑞垣を巡らし、正面に向拝門がある。旧本殿は明細帳に妻入前拝ありと記され、小規模の春日造であったようである。 
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