物語の中で安珍は灰となり、大蛇となった清姫は入江に沈んでしまう。この話は謡曲にもあり、川の名を日高川とし、冗談をいうのを父としているが、安珍清姫の名は見えない。
絵巻物やお伽草子にもなっており、僧を清水寺の賢覚としているものもある。
『元亨釈書』に伝えられている話では、鞍馬寺の僧安珍に寡婦が思いを寄せることになっており、死んで道成寺の僧の夢に、二人蛇となってあらわれ、悪道におちて苦しんでいるから、法華経の寿量品を写して、供養して貰いたいと頼み、やがて往生するという筋でやや異なっている。
清姫の名前が出てくるのは、江戸中期の浄瑠璃からで、文政時代の『道成寺縁起』や『清姫絵巻』では《奥州白河といへる処に、安鎮(安珍)といへる僧あり、常に三熊野を尊信し山伏の姿となりて、同国室(牟婁)の郡真砂の庄司が許を宿として、毎年此処に宿りける。この庄司に一人の娘あり、名は清姫と呼びて、未だ幼稚の頃より、容顔麗しく、殊に怜悧なりければ》と記されている。清姫の生まれ故郷といわれる真砂の里には、今も「清姫之墓」と書かれた石が残されている。地元の人達はいまでも、清姫は悪女ではなく、純真無垢な娘であったと語り伝えている。
●鐘に恨みは…
〜道成寺の釣鐘〜
釣鐘は多勢の衆の念力によって造ったものが真の鐘と申すもの。
かの道成寺の鐘の製錬には檀家総代が世話人となり、羽織・袴を着用して
戸毎に寄付に廻り合力を勧めた。農家では斧・鉈(なた)・鍬(くわ)・鋤(すき)
の古金類。商家では銭、大家では金銀。婦人はかんざし等、あらゆる金属類を寄進し、
合せて何百貫という大したものになった。
ある日、世話人は小屋住まいの老夫婦を尋ねた。細々と煙を立てているのを
承知しているので気の毒に思ったが、万人の念力が主眼の故を思い、病床の老爺にこのことを話した。老爺は大いに喜び、古鉈を一丁寄進した。
留守をしていた老婆が帰ってきた。「じいさん変わりないか」と言うから「変わりないよ。ばあさん、たった今、寺の総代さんが来て、道成寺に釣鐘を造るから何か寄進してほしいと言うから、鉈を寄進したよ」と言う。老婆は驚いて、「あの鉈はわしらの二人の命の綱、それを持って行かれて何としょう」と泣き出した。「わしら二人にとって、鉈は大切な事は解っている。けれどもお寺の大鐘造りの仲間に入っておくことは後世のため。諦めてくれ」と言って慰めた。けれども老婆は「わかっている。けれどもあの鉈が無くてはこの世で二人で食べて行くことはできないぞよ」と泣く。それも道理。毎日二、三合の米を食わしてくれる鉈である。この鉈なくては二人は餓死するほかはない。
老爺は今は理くつに困り、老婆が泣き伏している間にそっと寝床を抜け出した。はうようにして一町(約百メートル)ほど行った所にある池の側に立った。そして念仏をくり返し唱えたかと思うと、その池に身を投げた。
老婆が涙を拭うて見ると、爺さんの姿がない。「爺さあん、爺さあん」と叫びながら広くもない小屋の中を探したが、どこにも見あたらない。もしやと思って、その池まで走ってきた。見ると古草履が一足、池に向かってきちんと揃えてある。狂わんばかりに嘆き悲しんだ老婆は、夫の後を追うて池に身を投げたのであった。
この夫婦は後世に生まれかわるのである。男は奥羽白河に生まれ、女は中辺路、真砂庄に生まれた。言うまでもなく、後の安珍と清姫である。二人は共に鐘に恨みがあった。
清姫の恨みの炎で釣鐘が灰になった時、悲しくもその中に古鉈が一丁あったという。
(那須清次『伝説の熊野』)
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