浄見原神社
きよみはら

ご祭神 天武天皇

鎮座地 奈良県吉野郡吉野町南国栖

    
● 国樔の翁
 吉野川の右岸に参道が続き、断崖絶壁ともいうべき景勝に鎮座する。毎年、旧正月十四日の例祭に国栖奏が奉納される。
 国栖奏は吉野国栖人が朝廷の大儀に歌・笛を奏し御贄を献じたことに創まる。貞観儀式に国栖人が儀鸞門外で奏したという故事に則ったもの。この祭礼は舞手や神饌(かわず・河魚・芹)など古式をよく保存している。
 社地は神明造一間社が建てられ、前方に拝殿がつくられている。石灯には享保五年のものと安政三年のものとがある。
『謡曲「国栖」と国栖奏
謡曲「国栖」は、浄見原天皇が叛乱のために吉野に遷幸あそばされた時、老人天婦が根芹と国栖魚を供御し奉り(国栖魚の占方)、やがて追手の敵が襲って来ると、天皇を舟にお隠しして(洲股の渡)御難をお救い申し上げた。そして、御慰めのために天女が現われて楽を奏し(五節舞)、蔵王権現が現われて御味方申し上げ、かくて世は太平になった。という曲である。
 記紀、應神記には、天皇吉野行幸の時、国栖人が醴酒と土毛(根芹)とを献じ、伽辞能舞<かしのぶ>の歌舞を奏すとあり是が国栖奏の始めである。
 国栖奏は十二人の翁による典雅な舞楽で、国栖人は壬申の乱平定に功績があったとして天武天皇(浄見原天皇)の殊遇を賜り大嘗祭に奉奏する外、毎年元旦には宮中に召されて歌舞を奏せしめられた。
謡曲史跡保存会
【境内の看板より】

「国栖奏のこと」
 吉野は古く、古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川の沿岸の地域をそう呼んでいました。
 古事記・日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
 記紀には「神武天皇がこの辺りへさいかかると、尾のある人が岩を押分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました。と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
 又、記紀の応神天皇(今から約一六〇〇年前の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
 さらに、今から一三〇〇年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起こりました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子と対立しました。
 戦は約一か月で終り、大海人皇子が勝って天武天皇となりました。
この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。
 これを見た皇子はとても喜ばれて、“国栖の翁よ”と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月十四日に天武天皇を祭る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
吉野町観光課

【境内の看板より】
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