櫛玉比女命神社
くしたまひめのみこと

鎮座地 奈良県北葛城郡広陵町弁財天

ご祭神 櫛玉比女命
 弁財天の東南、字長泉寺に鎮座する。前方後円墳の後円部に本殿があり、古墳全体が神社の境内になっている。古墳信仰にもとずく古代の祭祀遺跡であるが、祭神と古墳との関連は明らかでない。

 祭神について「神名帳考証」では、物部氏の祖天饒速日命の妻で長髓彦の子御炊屋比売命とされる。
 「大和志」では「延喜式」神名帳広瀬郡の櫛玉比売神社に比定とあり、寛政三年(1791)刊の「大和名所図絵」にも櫛玉比売神社は弁財天村にあると記されているが、外にも広瀬神社の相殿に祀る同名神社をあてる説もある。
境内社は向かって
 
左から一番目、八幡社
左から二番目、?(木札の字を確認出来ず)
左から三番目、稲荷社
左から四番目、白山社
 明治時代以前に当社は弁財天社と呼ばれていた。
当社の北方的場の大福寺(真言宗)所蔵の応長二年(1312)の箸尾満嶋弁財天瑞夢記の付記「縁起現記」(文安元年写・1444)によれば、神社鎮座の古墳は、聖徳太子の築造で、弘安七年(1284)に当地氏人僧侶等が天河弁財天(吉野郡天川村坪内鎮座)を勧請して壇上に社殿を造立したとある。近世には大福寺の鎮守であったが、神仏分離令で、弁財天・南・的場・菅野の氏神となった(「奈良県の地名」)。

 明治二年(1869)の「社寺取調書上帳」(大福寺所蔵文書)には、
  鎮守  弁財天社 境内弐拾間四方
  掃除守 弁才天村角五郎と申者致居候
  祭礼之節ハ広瀬郡広瀬村神子五鈴鹿丹後と申者相勤来り申候とあり、弁財天社とよばれているが、翌明治三年(1870)の「櫛玉比売命神社明細書上帳」(大福寺所蔵文書)には、
 
  大和国広瀬郡箸尾村坐
   櫛玉比売命神社  式内小社  一座
    祭神市杵島比売命
 
    一御鎮座之儀者年歴相知不申候、御造営明和三年五月
    一除地境内 弐拾間四方
    一社殿   梁行三尺桁行三尺、三尺三尺御拝所、屋根桧皮葺、千木勝押木附
    一拝殿   梁行弐間梁行六間、屋根瓦葺
 
とあって、既に祭神を市杵島比売命とする式内社櫛玉比売命神社になっており、明治十二年 (1879)の「神社明細帳」には社名は櫛玉姫神社、祭神は櫛玉比女命となっている。創建以来弁財天社とよばれていたのが、近世中期以降式内社櫛玉比売神社に比定されるようになり、祭神が櫛玉比売命となって、櫛玉比女命神社の社名になったものと思われる。

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