| 三十八神社 みそは
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| 旧『榛原市』によると、かつて真言寺院であった廃寺善福寺と同境内に鎮座されていた。 今の神饌所はその大師堂だとあり、かつての本堂はこの神域内社務所の隣に移建したものという。 司水神弥都波能売命を祀るお宮であり、字も三十八(みそは)と呼び、宇陀水分神社祭典日の神興は、当社のすぐ下方路上の二本杉(今は枯死している)の位置まで遷幸して、真上の当社の神を遙拝して歸座するならわしであるという。 |
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【三十八神社由緒記】 当地は、柿本人麻呂の歌で名高い阿騎野の近くで古くから開けたところです。水を司る神である宇太水分社や伊勢神宮系の神戸社(阿紀神社)などが、大きな勢力を持っていました。上井足村も宇太水分社とかかわりがありました。 当社は、伝承によると応保二年(1162)六月十八日に創建された由伝えられています。おそらく井足村が一つのまとまった村として成り立ったときに、村人の信仰から作られたものでしょう。 |
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| 祭神は弥都波能売命で、水を司る五穀豊穣の神様です。 平安時代の末頃にはすでに井足村という庄園があって、興福寺領でした。まもなく上井足と下井足が分かれたようで、室町時代ころの古文書によると、井足下庄と井足上庄の名前を見ることができます。しかし二つの庄園は兄弟のようなもので、当社はそれぞれ庄の鎮守社でした。当地は戦国時代には近くの領主秋山氏の知行分で、実際には土豪井足氏が支配していました。当社も井足氏の氏神となっていたことでしょう。この地は大和から伊勢へ行く街道になっており、井足関という関所が置かれていました。関所からあがる通行料は禁裏(皇室)へ納められていましたが、関所の代官は井足氏が勤めていました。 豊臣政権ができた頃には秋山氏や井足氏などの武士はいなくなりました。文禄四年(1595)にこの地方では新たに検地が行われ、すべての土地に年貢がかけられることになりました。三十八神社は、由緒ある神社でしたので境内は除地(免税地)となりました。境内山林一町三反七畝二十九歩、境外田二反二畝十二歩が神社の土地として除地になったのです。神社には別当寺である真言宗の善福寺があり、社僧という神社に仕える僧侶が一人いました。長谷寺で修行をした僧侶が住職をしていた場合が多く、江戸時代の初期の貞享の頃は権律師与俊という人でした。社人はいず、村人が社役を勤めていました。神社に残されている造営や屋根葺替の棟札によりますと、元和六年(1620)、正保四年(1647)、寛文九年(1669)には神社の造営をしています。以後の棟札を見るとだいたい二十年に一度屋根の葺替をしています。寛政八年(1796)八月二十六日は、境内にあった神宮寺である善福寺の大師堂が造営されています。ともに上下の両井足村が共同で普請を行っております。普請が終わると、祝祭が行われますが、その時も善福寺の社僧が導師となり、仏式の法要がなされました。最近まであった大師堂は善福寺のなごりです。明治維新になり、神仏分離が行われ、善福寺も廃寺となりました。明治六年(1873)四月には全国の神社が社格を付けられることになり、当社は村社に列せられました。 [三十八神社パンフによる] |
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