厳島神社 |
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式内社。安芸国一宮。 |
| 厳島神社は海上に壮麗な社殿が建ち並び、日本三景の誉れが高い。周囲約31キロの宮島は古くより神の島として信仰され、人も住まなかったという。『延喜式』はじめ旧記には「伊都伎島神社」と記されているが、伊都伎とは斎く、心身を清め神に仕えるの意で、神の斎き祭られる島の意であるという。 | ![]() |
本社鎮座の縁起は、人皇三十四代、推古天皇元年(593)に佐伯郡の人、佐伯鞍職<くらもと>が所の翁と共に海上で釣りをしていたところ、紅の帆を揚げて西より船が来るのを見つけた。ようやく船に近づけば、三女神がおられ、舳先に厳鉾<いつほこ>、赤幣を立て厳瓶<いつへ>が置かれていた。女神が鞍職に「吾は古へよりこの島に在りて幽事を治め百王を鎮護せり、汝朝廷に奏して祠殿を造建すべし」と仰せられ、鞍職は畏みて京師に上り、神託を奏して勅許を拝した。島に帰って造営すべき社地を定めようと、新しく船を作って所の翁と共に島々浦々を調べていた(お烏喰神事の由来)ところ、時に※神鴉が山上より飛来し、船を導き御笠浜に留まった。鞍職と翁はこれを神意の命ずるところと知り、造成し斎斧<いつきおの>を以て樹木を切り取り、高天原に千木高く新宮を造立したと伝えられる。初代の神主には佐伯鞍職が任じ、以後、代々鞍職の子孫が神主を務めていたという。 |
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海上の大鳥居(重要文化財)は、明治八年七月の重造で、高さ16m余、両部鳥居。主柱は樟材で全体に丹塗を施したもの。屋根は檜皮葺、副柱も同様。 額面は有栖川宮熾仁親王の御染筆で、表が「厳島神社」、裏が「伊都伎島神社」と記されている。 |
| 貞観元年(859)七月に従四位下に叙せられてより天慶三年(940)には、海賊平定祈願の報賽として、正四位上を授けられた。 平清盛は、厳島神社を平家の守護神として崇敬し、仁安三年(1168)現在の規模の社殿を造営している。承安四年(1174)には平清盛は後白河法皇と建春門院に伴って社参し、治承元年(1177)には中宮徳子、三月と九月には高倉上皇が御幸されている。平家一門の人々が平家納経をはじめ数々の美術工芸品を奉納している。平家の後も鎌倉将軍家や足利尊氏、大内義隆、毛利元就などの崇敬を受け、また、厳島神社は全国に亘って奉斎されて広く国民一般の尊崇が篤い。平清盛の造営の後、建永二年(1207)と貞応二年(1223)に火災に罹り、現在の主要社殿は仁治二年(1241)までに再建されたものであり、本社本殿はさらに元亀二年(1571)に毛利元就が造替している。天正十四年(1586)には、豊臣秀吉も参詣している。近世には広島藩浅野氏の崇敬が篤かったが、一般民衆の参詣も多かった。 |
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| 本社本殿は一重、両流造。檜皮葺で正面六間には緑色の菱格子を建込み、これに続いて幣殿、拝殿、祓殿がある。 | ![]() |
![]() 火焼前<ひたきさき>(お舌) 海中の大鳥居と相対している。 |
![]() 高舞台・ 後ろに見えるのは、 右門客神社<かどまろうど>と右楽房。 |
![]() 太鼓橋(反り橋) |
![]() 足の長い石灯籠・うしろに左門客神社 火焼前の左右楽房に接近して、門客神社がある。 ご祭神は豊石窓の神、櫛石窓神を祭る。 沖の恵比須とも呼ばれる。 |
お鳥喰神事<おとばみしんじ> 五月十五日の講社の大祭。宮島には七浦ある浦毎に、それぞれ神社を安置しているので、宮島の七浦七恵比須という。この七浦七恵比須を回る島巡り式の際、養父崎神社前の海上で、神職が祝詞奏上ののち、粢団子<しとぎだんご>を海に流すと、養父崎神社の森に住む神鴉が飛来して粢団子を運び去るというお烏喰の神事。これには、ご祭神の市杵島姫命が御鎮座の際、雌雄の神鴉が飛来して御鎮座の地に導いたという伝承がある。 |
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