| 畝火山口神社 おむねやま 鎮座地 奈良県橿原市大谷町248-5 ご祭神 気長足姫命 豊受比売命 表筒男命 ● 阿知賀物語 |
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| 大谷町の集落の東、畝傍山の西斜面に鎮座する。旧郷社。創建年代は明らかではないが、大同元年(806)に神封一戸を寄せられたと「新抄勅格符抄」にあるので、大同以前の創建とみられる。「延喜式神名帳」には「畝火山口神社 大・月次 新嘗」とある。また『延喜式』巻八祝詞には、畝火山口の神は飛鳥・石村・忍坂・長谷・耳成と六山口神として、皇御孫の御舎造営の用に供する御料林守護のため、山麓にまつられていたことを考えると、本来のこの社の祭神は大山祗命であったことになる。が、いつのころからか今の祭神気長足姫命・豊受比売命・表筒男命が主神となり、大山祗命が境内社の神になっている。 文安三年(1446)に著された「和州 十市、高市、宇智、吉野、宇陀 神社神名帳大略解」には「畝傍山口神社、久米郷畝火山西ノ山尾にあり」とあるので、この当時は畝傍山麓西の山の尾にあったことになる。ところが、大谷家所蔵の天正三年(1575)の「畝傍山古図」では、山頂に社殿が描かれているから文安三年から天正までの間(1573〜92)までの間に山頂へ遷座されたことが明らかである。口碑に越智郷を本貫とした豪族の越智氏が、この南方約3Kmの貝吹山に築城の際、真北の下方に神社を見下ろすことを恐れて山頂に遷座したという。 しかも祭神もいつのことからか主神であった大山祗命が末社の神になり、気長足姫命・豊受比売命・表筒男命が主神をして本殿に祀られることになったらしい。『大和志』に「昔在二畝火山腹一今遷二山頂一」とあり、『大和名所図絵』(寛政二年(1790)五月上木)には「今山頂に遷す。祭る所神功皇后にてまします。畝火明神と名づく。又宮寺を国源寺といふ。西の麓に神祠の址とて石あり。今御旅所と云ふ。」と記している。 現にこの宮の神を安産の神として信仰されている神功皇后や他の二神が主神になった時期やその由来も明らかでない。 江戸時代池尻村に旗本陣屋をもっていた神保氏は二十年毎に本殿改造また屋根替を行った他、祭礼時には御供料五匁(もんめ)を奉納し、郷中も氏子四十二か村三〇〇〇戸に及んだと伝えるが、近年では郷中十二か村となった。また、昭和十五年皇紀二六〇〇年祭を迎えるに当って、この社が橿原神宮や神武天皇陵を脚下に見おろすとことになり、神威を汚すというので、山頂の当社を山麓の現在地に遷座するようにとの当局の命で、同年十月九日に遷座した。 今の本殿・拝殿その他は昭和十五年の遷座に当って改築されたもの。その他の施設は殆ど山頂から移されたものである。 |
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拝殿手前右手の祓戸さんは、立派な榊。 |
| 拝殿手前の左側に、三連の流造が二社鎮座する。 向かって右側の三社の流造 右、大山祗神社 (祭神 大山祗命) ※創祀以来の祭神と見られる神。 中、埴安彦命神社 (祭神 埴安彦命) 左、春日神社 (祭神 春日四神) 左側の三社の流造 右、厳島神社 (祭神 市杵島姫命) 中、諏訪神社 (祭神 建御名方命) 左、八幡神社 (祭神 誉田別命) |
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| 例祭は四月十六日。夏祭(でんそそ祭り)、七月二十八日。新穀感謝祭は十二月三日。 祈年祭(御田植祭)二月二十八日。祈年祭は、神前で四人が牛面姿の役牛と農夫になって牛を使い、もう一人が下女に扮し、何れも紙の面を被って鋤・鍬・馬鍬等の農具で整地し、神饌として供えた荒稲をとって田植のしぐさを行う農耕儀式で、五穀豊穣を祈願するもの。 埴土神事は、毎年二月と十一月に行われる大阪住吉大社の祭典に用いる土器を作るための埴土を畝傍山頂で採取する行事。当日、埴使として住吉大社宮司が正使となり、早朝斎戒して副使と箱持をしたがえ、かつては馬で大和に入り、まず雲梯(うなて)の河俣神社へ赴き、傍の曽我川で斎戒、祭服に改めて修祓したので、この宮を装束の宮といった。その後、当社に着くと、宮司とともに神前に祝詞を奏上して山頂に登り、アラカシの古木の下の玉垣を巡らせた埴取場で口に榊の葉を含んで、一握中に含む五〜六粒のねずみの糞状の埴土を三握半取って、小唐櫃に入れ、山中の榊の枝を添えて下山、陶土を加えて祭典時の土器をつくる。今この土粒は、当神社で「安産のお守り」として授与されている。当社の遷座前この埴取場の正面に石燈籠があり、「堺住吉御峯山文化三丙寅(1806)九月吉日」との刻銘があったと記されている。 |
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拝殿右手にある、見事な陰陽石。 陰陽揃って並んでいる。 |
| 神功皇后(気長足姫命)が応神天皇をご無事にご出産されたことにあやかり、霊験もあらたかな。安産の神様として、崇敬も篤い。 | ![]() |
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