志都美神社
しずみ

鎮座地 奈良県香芝市今泉

ご祭神 天児屋根命
    中筒男命
    誉田別命
 明治二十六年の「神社明細帳」は、由緒として、「延喜式神名帳所載ノ社ニテ往古清水ノ神社ト云社殿ニ大職冠藤原鎌足公ノ孫従四位片岡民部少輔綱俊ナル人弘仁四癸巳年八月九日宮を片岡ニ作リ以テ片岡家ノ鎮守トス是当社ノ草創ナリト云ヘリ」としている。
本殿裏手の禁足地。
鳥居額には、神籬之社とある。
 社殿は、三間社流造銅板葺。拝殿は唐破風の向拝を持つ。桟瓦葺。
 例祭日は九月九日で、高村・上中・三角・下寺・今泉・畑ノ浦・朝日ヶ丘の人々らが神社の氏子として祀る。なお、宮座は無く、宮議員が各々の地域から出される。
 境内には、嘉永五子正月吉日 献燈 黒松喜右衛門とある石燈籠を右端に、天保十三壬寅年正月吉日・弘化三午正月吉日等の刻銘を持つものが石鳥居まで十九ならぶ。
 また、石鳥居左側には、安政三丙辰正月吉日 黒松喜右衛門 献燈とあるものを始めとして安政七年までの各正月吉日、献燈とする石燈籠が五つならぶ。黒松喜右衛門の銘がある石燈籠は、この他にも多数境内に散在する。

 本社は『大和志』『大和名所図絵』に志美都八幡と出ているが、境内にある享保十二年の石燈籠、明和四年十一月の刻銘を持つ石の手洗鉢にも八幡宮とあり、八幡社とされていたことがわかる。志美都八幡と呼ばれた理由は、旧境内地に実際に泉があり、清水がよくわいたからだということで、『神祇志料』が、「志美都八幡は、盖石清八幡の名に依て、志都美神社を呼改めしものなるべし。」ということも納得できるようである。ただし祭神は時代とともに変化した可能性が大きい。

境内にある看板より

 式内社 志都美神社(今泉)

  志都美神社の社そう
      (奈良県指定・天然記念物)
 
 志都美神社は『延喜式』に記される式内社です。本殿は三間社流造で、江戸時代中期の建立と考えられます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)に盲目の僧侶が境内で湧いていた清水で目を洗って霊験があったとの伝承があり、江戸時代の『大和志』や『大和名所図絵』などに「清水(志都美)八幡」として紹介されています。境内の石鳥居や手水鉢にも「清水八幡」と刻まれています。
 天文二十二年(一五五三)三月、右大臣の三条西公条(さんえだ)と連歌師(れんがし)の里村紹巴(じょうは)が高野山・吉野からの帰途、同社の神宮寺「片岡清水明王院」で一夜を明かしたことが『吉野詣記』に記されています。明治の神仏分離で廃寺となりましたが、鎌倉時代の作風を遺す「石造浮彫不動明王立像」(香芝市指定文化財)は近くの念通寺に移されています。社殿の背後に広がる森(社そう)は北にある武烈天皇陵の樹そうと一体となって、自然林として残されています。巨樹は少ないのですが、見事な林相が形成されていて、学術上きわめて貴重な自然が保たれています。
 平成十二年三月      香芝市教育委員会

 本神社入口の石鳥居後ろに、明和二乙酉暦 明王院 三月吉日 永代常夜燈と刻む石燈籠があるのは、明王院という神宮寺が明治の神仏分離令の出る当時まであったたである。現在の社務所の位置に寺はあった。寺が創られたのは、元禄時代盲目の法印が、神社境内の清水の井戸の霊験で目があいたために、神社に奉仕しようとしたためであるという伝説がある。
 本殿裏手の石垣にある記念碑。

  志都美神社は香芝市今泉に位置するが江戸時代には上里村・中筋村・今泉村・高村の五ケ所の氏神であり厚い信仰をあつめていた。特に明治十三年八月にコレラ流行し氏子が侵入防止を祈願した結果ひとりの患者も出なかったのを喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後石垣に「明治十二年八月虎列拉病流行氏子祈願無一人患者無人歓呼奉納」ときざみ奉納した記念碑がある。
 日本へコレラが最初に侵入したのは文政五年で第二次流行の安政五年は日本中をコレラ流行禍にまきこみ死者二万八千人に達した 明治に入ってから同十二年に全国に流行しての余波が十二年にまで及んだという。死者が出ないということは本当にめずらしくご神徳がうかがえる。
境内摂社
写真左から、
 ・祓戸大神  [ご祭神 瀬織津姫命、速秋津姫命、伊吹戸主命、速佐須良姫命]
 ・天照皇大神 [ご祭神 天照皇大神、豊宇気比売命]
 ・奥之稲荷社 [ご祭神 宇賀ノ御霊]
 ・稲荷大神  [ご祭神 宇賀ノ御霊]
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