瀧蔵神社
たきくら

ご祭神 伊弉冊尊、伊弉諾尊、速玉命
    国狭土尊、沙土煮尊
    豊雲野御子、大戸道尊
    天忍穂身尊、葺不合尊
    面足尊、天彦火瓊々杵尊
    煌根尊、火々出尊
    泥土煮尊、大苫邊尊
    天照大神

境内社
 六社神社・本殿に向かって右側壇上
 六社神社・同じく左側壇上  
 鎮守神社
   
鎮座地 奈良県桜井市滝倉字権現山
 


拝殿
 瀧蔵神社を瀧藏、瀧倉、滝倉、滝蔵等々の表記有り。川上瀧蔵明神あるいは瀧蔵権現とも呼ばれる。滝倉の西南、標高430メートルの山上に鎮座する旧指定村社で国史見在社。
 古来、輿喜天神とともに長谷寺を守護する地主神として古くから崇拝され、長谷寺奥の院の由縁で、長谷八郷の総鎮守として、飛鳥時代(五〜六世紀)「瀧藏権現この地に座す」と文献に見える。ここを本社とした新宮三社が長谷寺・観音堂の左脇(向かって右)に祭られ鎮守とした。

瀧藏神社

ご祭神 伊弉冊尊(右殿)
    伊弉諾尊(中殿)
    速玉命 (左殿)

 神話唯一の夫婦神と御子を祭り、三社権現にて滝倉権現・滝倉明神・滝倉大菩薩と呼ばれる。後に毘沙門天・疱瘡神を合祀す。
一、神階 延喜二十年(921)従四位下
     天慶 三年(940)正二位
一、神殿 創建年代不詳・三間社流造・権現鳥居
     (棟札)文禄三年(1594)修復以後十一回
一、文献
   元長谷八郷の鎮守、地主神にて天慶九年(946)「長谷寺延喜」に滝倉権現のお告げに依り大泊瀬<おおはつせ>山を「与喜地」・「与喜山」として菅原道真公に護られたとの夢物語が書き残され、以来滝倉を「本地主神」、与喜山を「今地主神」と云われた。
 長谷寺の奥の院と称し、古来より信仰深き神社にて長谷寺へお詣りしても当社へ参詣しなければ御利益は半減すると伝えられ「今昔物語」巻十九に平安時代当時の滝倉明神の社殿その他長谷寺との関係が具体的に書かれている。
 鎌倉初期・保延四年(1138)に書かれた「長谷寺観音記」に美福院(七四代鳥羽天皇妃)長谷寺に参詣、夢のお告げにより滝倉権現の尼の力で姫を若宮(七六代近衛天皇)と取り替えて貰ったという誕生の秘密が記されて有り、院はお礼に「滝倉の拝殿を営作す」と有る。
 尚、「豊<ぶ>山玉石集」には、当山を滝倉大菩薩と云う三社有り「新宮権現」は女体柔和の姿。本地「薬師如来」・「滝倉権現」は老父の形・本地「虚空菩薩」・「石蔵権現」は比丘の姿。本地「地蔵菩薩」有る。
一、神社付近 古鐘 神宮寺 応永二十六年(1420)
          ┏弥勒菩薩(吉野町時代)  神社下
       石佛 ┫地蔵菩薩(鎌倉時代)   西方寺
          ┗十三佛 (享保七年、室町)峠垣内
       塚  黄金塚・明星塚
                        以上

境内の案内板より

 興福寺門跡大乗院尋尊識語の応仁元年(1467)書写仁平二年(1152)の『長谷寺密奏記』に、瀧倉大菩薩当山地主也河上ニ坐シ御ス とある。滝倉山一帯は、奈良・春日神社の神領であったが、ここに庶民信仰が根強くあったことを『今昔物語』巻十九 滝蔵礼拝堂倒数人死語第四十二からうかがうことが出来る。
 また、『長谷寺観音験記』巻第七によると、保延四年(1138)十一月十八日に美福門院(鳥羽天皇の皇后近衛天皇の母)が、長谷寺に参詣、夢のお告げで若君(近衛天皇)を生んだところで、
 此山ノヲク瀧蔵山ニ一人ノ尼有リ、日天子ト嫁ギ、高貴ノ男子ヲ生ズ。是ニ必取更<カエ>奉ルベシト云ト、(中略)彼瀧藏権現ハ是ノ尼ヲ御座ナリ。
と、瀧蔵権現のご神体を「尼」→女性としている。
 懐妊した美福門院は、博士の卜<うらない>で姫宮であるといわれたので、長谷寺に詣って祈ったところ、夢の中で登場した瀧蔵権現の尼の力で姫を若君に取り替えてもらった。
喜んだ院は、「瀧蔵ノ拝殿ヲ営作ス」という。

 御祭神は、中央の高いところ、三間社・流造で朱塗りの本殿に伊弉諾尊(中殿)、伊弉冊尊(向かって右殿)、速玉命(向かって左殿)が鎮座する。
 本殿の一段下の右壇上、末社の六社神社本殿には、右側より国狭土尊、沙土煮尊、豊雲野御子、大戸道尊、天忍穂身尊、葺不合尊が鎮座する。
 同じく、左壇上の六社神社の御祭神は、
右側より、面足尊、天彦火瓊々杵尊、煌根尊、火々出尊、泥土煮尊、大苫邊尊が鎮座する。
 北参道入口北側に鎮守神社、春日造・朱塗り、御祭神は天照大神を祭る。

 昭和三十年の開扉記録によれば、本殿内には六体の神像がある。中殿内には女神坐像、右殿内には半身の女神坐像と童子像の二体、左殿内には男女神坐像と童子坐像の計三体、ならびに中殿神像前に桐箱があり、箱裏に享保九年(1724)の重修墨書銘。中に絹本着色・瀧蔵権現画像(長さ1.21m、幅42.4cm「応永十一甲申九月十八日」の墨書銘)が、一幅入っていた。また、左殿内に「痘瘡神」<とうそうじん>と墨書した厨子があり、高さ20cm前後の立像(木造)が六体納められていた。このほか、中殿に木造漆箔虚空菩薩坐像、左殿内に木造漆箔聖観音坐像が納められていた。

滝藏山梵鐘の由来
 今を去る五百数十年前 即ち応永二十六年(西厂一四一九年 第一〇一代称光天皇 執権足利氏)長谷寺の高僧善照る上人はあ同寺の本地主たる瀧藏神社(当時は神宮寺)の霊験の顕たかさに感激されこの梵鐘を寄進賜りその刻銘を見る事が出来ます。以来護摩供養を説経して諸願成就、七難即滅の鐘として今に至って居ります。
 〜案内板より抜粋〜

 また、境内の『権現桜』は、枝垂れ桜の古木で桜の季節には県内外から多くの人が足を運んでいる。

『今昔物語』巻十九 滝蔵礼拝堂倒数人死語第四十二
        <たきくらのらいはいだうたふれてあまたのひとしぬることだいしじふに>

  今は昔、長谷の奧に滝蔵と申す神が鎮座しておられる。その社の前に、軒続きに長さ三間の檜皮葺の家があった。社は山に沿って高い所に建ち、前の家は谷に柱を長く継いで建ててある。その谷ははるか深く、見おろすと目もくらむばかりだ。
 さて、ある正月、大勢の人が参詣したが、七、八十人ほどがその社の前の家にいて、経をよんだり礼拝したりして、お勤めをしているうち、いつしか真夜中ごろになった。
 なにさま多くの人が集まって床が重くなっていたので、そのころになって、谷側の柱が谷の方に傾き、柱がつぶれて土台石から落ちた。それに引かれてほかの柱もみな土台石からはずれる。同時に、建物全体が谷の方へ投げ出され崩れ落ちて行った。
 その時、そこにいた者たちは、はじめは地震だろうと思っていたが、にわかに谷の方に崩れ落ちたので、居合わせた者ことごとく、あるいは家から投げ出されて谷に落ちてゆく者あり、あるいは柱・桁 <けた> ・梁に打たれてめちゃめちゃになる者もあり、あるいは子を抱いた女が母子ともども頭を板敷の間にねじ切られて、からだだけ谷に落ちてゆくのもあり、あるいは五体ばらばらになって全部飛び散ってしまった者もある。だがその中で、女一人、男三人、子供二人だけ、谷の底に落ち込んだが、かすり傷一つなく助かった。
 思うに、この助かった者たちは、前世からの宿業が強かった上に、神の助けと観音の加護があったのであろう。じつにこれは不思議きわまることだ、とこう語り伝えているということだ。

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