| 爲志神社 いし
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| 『大和志』は式内社為志神社に比定。 天保三年(1832)の林堂村の明細帳によると、江戸時代十二社権現とよばれた林堂氏神が、式内社為志神社に比定されている。 為志神社は明治四十三年(1910)一月二十九日「将来維持ノ見込無之」との理由で葛木坐火雷神社に合併されたがその後、為志神社を崇敬する人々の志で再建された。 |
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| 為志神社遺蹟石碑由来 式内古社。為志神社に伊古比都幣尊祭神として古く栄え、延喜式には忍海郡二社の筆頭に記載されている。由緒正しい神社で、久しくその尊厳を発揮してきたが、明治三十九年の勅令社寺合併令により、明治四十三年二月八日をもって、式内大社葛木坐火雷神社に合併されて今日に至った。 しかるに廃社の後人々は、社殿の跡に為志神社遺蹟の石碑を建て、あたかも神殿に対するが如く、これを崇敬してきたのである。人々の志実って社殿を再建し、祭神を還し、ここに式内小社為志神社の再建が成就したあとなり。為志神社遺蹟の碑を温存する所為である。昭和五十七年十月十七日 式内社為志神社 再興発起人一同 |
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