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| 都祁水分神社 つげみくまり 鎮座地 奈良県奈良市都祁友田町 (旧 山辺郡都祁村友田) ご祭神 速秋津彦命 天之水分神 国之水分神 ● 山辺の三井 |
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式内社で俗に友田宮、または水分宮 (すいぶんのみや)ともいう。 文徳実録・三代実録にもその名の見えている由緒古い神社である。創祀は詳かでないが、 「延喜式」祈年祭祝詞に、「水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して」とある都祁水分神社である。 |
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仁明天皇承和七年(840)に従五位下を授けられ(「続日本後記」)、文徳天皇仁寿二年(852)官社に列し(「文徳実録」)、清和天皇貞観元年(859)従五位下より正五位下に進階、同年九月八日、使を遣わして奉幣、風雨祈願のための祈祷がなされている(「三代実録」)。 水分大明神垂跡記によると、元慶三年(879)現都祁山口神社のある大字小山戸(おやまと)の高山に萱葺の社殿を建て、寛平三年(891)高山の山麓に移した。 しかし、小山戸への参拝道が狭いため、天禄二年(971)現在地に移して下宮と称し、元の小山戸を上宮と言ったという。その後、だいたい三十年から四十八年に一回の造営があったようである。本社創祀以来、氏子として社殿造営および祭祀に関わってきたのは、興福寺の寺領二階堂院の東山中七筒庄(水桶・向淵・牟山・南殿・小倭・藺生・鞆田)の各庄であったが、保元〜平治(1156〜60)のころ、領主二階堂院に代わって興福寺大乗院門跡の管領するところとなった。 毎年九月二十六日の祭典は、春日若宮おん祭を模して盛大に行われ、大乗院から使者が派遣されたといい、正徳四年(1713)に書かれた神事絵巻が現存している。内閣文庫にある大乗院文書には、当社氏子として「鞆田・白石・セリ井・多田・窪・小倉・南・卓山(早山)・牟山・藺生・向淵・小山戸」の東山中諸氏の名が載っており、氏神として大乗院庇護のもとに繁栄していったと考えられる。 社殿の造営・修理に当たっては、七筒庄に米・銭を賦課し、近くの山の木を伐採して用材とした。戦国の争乱による東山中諸氏の零落に伴って祭祀は形態も変化し、神社は農民が祭祀することになった。鎮座地の友田村が中心となって、享保(1716〜36)のころには近隣五村が祭祀にあずかり(「大和誌」)、明治四年(1871)には三十箇村の郷社となり、昭和四年県社に昇格している。 現在の例祭は十月二十六日。 社殿の中にある神輿は有形文化財で、水分神社縁起絵巻物の一軸に「康正三丁丑年神輿造替神主外小法師代三郎大夫大工長谷寺重政」とある。正徳四年(1713)に改められたという神社渡御の絵巻物には、この神輿をかついで行くところが描かれている。 現在の本殿は一間社春日造檜皮葺。総丹塗で、春日神社本殿の形式に近く、国の重要文化財に指定されている。 本殿の周囲に瑞垣を巡らし、正面に中門、その前に拝殿があり、左右に社務所、座小屋を配し、鳥居を建てている。現社殿の建築は、明応八年十二月の造営で。康正三年に再建された後、数度の修補を経て今日に至ったものであるという。 境内社 国津神社(もと、相河字丸山に鎮座) ご祭神 大国主命 ![]() 末社 厳島神社(ご祭神 市杵島姫命) 皇大神々社 (ご祭神 天照大神) 明治四十一年八月二十二日に合祀された。 国津神社(もと、来迎寺に鎮座) ご祭神 大国魂命 明治四十年八月二十二日に合祀された。 国津神社(もと、友田クズガミに鎮座) ご祭神 大国魂命 明治四十年九月十日に合祀された。 |
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