稚櫻神社
わかざくら
   
鎮座地 奈良県桜井市池の内字宮地
ご祭神 気長足姫命
  出雲色男命
  去来穂別命
  (「神社明細帳」では菅原道真)
 池の内の東端、小丘の上に鎮座する。
以前は古樹が生い茂っていたそうだが、今は小丘上のあちらこちらが伐採されている。

 旧指定村社。旧称は磐余稚櫻神社(いわれのわかざくらのみや)北面した社頭に梅咲善八ほか三五人が建立した「式内稚櫻神社」の社標石があり、参道を南から東へ回り北へ登ると、広い境内の北向うに明治十四年(1881)建立の社殿が南面している。

境内の看板より

 神社名「稚櫻」の由緒
 日本書紀によると「第十七代履中天皇三年(四〇一年)冬十一月六日 天皇が両枝船を磐余市磯池(神社の東側にあった池)に浮かべて遊宴ばれたとき 膳臣余磯(かしわてのおみあれし)が酒を奉った。その酒盃に櫻の花びらが散って来た。
 天皇はたいへん不思議に思われ、物部長真胆連をよんで「この花は、季節外れに珍しく散ってきた。どこからだろうか探してこい。」といわれた。長真胆連は花を探したずねて掖上室山で花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで宮の名とされた。磐余稚櫻宮の由緒である。長真胆連は本姓を改めて、稚櫻部造とし膳臣余磯を名づけて稚櫻部臣(わかざくらべのおみ)という。」と記されている。
 
 稚櫻神社の御祭神
 出雲色男命「新撰姓氏録」によると物部氏の御先祖の饒速日命の三世の子孫が出雲色男命で、また、右の由緒にでてくる長真胆連(稚櫻部造)の四代前の祖先にもあたる。「旧事本紀」に出雲色男命は懿徳天皇の御代に大夫になり次に大臣となる。大臣という号はこの時からできた。」とある。
 去来穂別命 いざほわけのみこと(履中天皇) 第十六代仁徳天皇の皇太子で「日本書紀」の履中天皇紀に「元年(399)春二月一日皇太子(去来穂別命)は磐余稚櫻宮で即位された。」とあり、「二年十一月に磐余池を作られた。」と記されている。 気長足姫命(神功皇后) 第十四代仲哀天皇の皇后で、天皇がお崩れになったので、天皇にかわって政務をされる摂政となられた。「日本書紀」神功皇后摂政紀に「三年春正月三日誉田別皇子(後第十五代応神天皇…八幡大神)を立て皇太子とされた。そして磐余に都をつくられた。
(これを若桜宮という。)と記されている。
 玉垣内に流造の本殿が鎮座する。本殿に向かって右に、春日造の高麗神社(祭神・武内宿禰「神社明細帳」では祭神・気長帯姫命で住吉神社)向かって左に春日造の天満神社(祭神・菅原道真「神社明細帳」には記載無し)の境内社が鎮座する。
 例祭は十月二十二日。
 拝殿前の広庭東側に朱塗りの厳島神社(祭神・市杵島姫命)登り口の奥に八坂神社(祭神・素戔鳴命)が南面して鎮座する。参道途中や広庭左右に荒神の小祠、稲荷大明神、愛宕大権現、富士大権現、天照・春日・八幡、三宝荒神、金毘羅などの自然石による石碑がある。
 上段左から、厳島神社、八坂神社、稲荷の小祠、稲荷大明神、愛宕大権現で、下段左から、
富士大権現、荒神の小祠、八幡大菩薩・天照皇太神宮・春日大明神、三寶大荒神、金毘羅大権現。
 本殿の前に「雷おさえの石」という、凝灰岩に単弁蓮華六葉を刻んだものがある。これは六角形石燈籠の中台と考えられる。当麻寺の金堂前石燈(重要文化財)と同形式で、白鳳時代のものではないかと考えられている。境内の石燈籠は三十一基あり、最古のものは末社・厳島神社左前の「奉寄進石燈籠祈願成就攸/寛文元(1661)天丑十一月吉日/施主十市郡池内村/大工 善右衛門敬百」(四角方柱)がある。
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