| 柳澤神社 やなぎさわ 鎮座地 奈良県大和郡山市城内町本丸跡 ご祭神 柳澤吉保公 ● 柳澤吉保の邸址 |
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| 郡山城内本丸跡に鎮座する。 旧藩士等の手によって、明治十三年十月二十九日創立。拝殿入り口の扁額「柳澤神社」の文字は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆によるもの。 |
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| ■柳澤氏(柳澤吉保・柳澤吉里)について ご祭神の柳澤房安(後の吉保)は、万治元年(1658)十二月江戸市ヶ谷に生まれる。 七歳のとき館林二十五万石綱吉の勘定頭をしていた父安忠に伴われ、初めて綱吉に謁見、延宝三年(1675)家督を継ぎ、保明と名のる。その時の家録は五百三十石であった。四代将軍家綱に子無く綱吉が将軍となると小納戸役となり、以後栄進して元禄元年(1688)側用人一万二千三十石を与えられ、初めて大名に列した。以後しばしば加増を受け、同七年に七万二千三十石、川越城主となり、初めて城持大名となった。同十一年老中の上座、事実上の大老格となり、九万二千三十石、同十四年松平姓と将軍の名の「吉」の一字を許され、名も吉保と改め松平美濃守吉保と称した。宝永元年(1704)には甲斐、駿河で十五万一千余石(実質二十二万石とも、また二十五万石ともいわれた)を賜ったが、同六年綱吉死去と共に隠退して六義園に住み、正徳四年(1714)十一月二日死去し甲府永慶寺に葬られた。 |
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吉保の長男吉里は、貞享四年(1687)九月江戸上屋敷で生まれる。名は安貞。![]() 元禄十四年(1701)父吉保と共に五代将軍徳川綱吉より松平姓と綱吉の「吉」の一字を許され、松平伊勢守吉里(後甲斐守)と称した。宝永六年(1709)父の隠退後家督を継ぎ、甲府城主となった。甲府では父の遺訓を守って善政を布いたが、享保九年(1724)三月本多氏断絶の後を受けて、郡山へ国替えの命を受け、大和、近江、河内、伊勢四ヶ国で十五万千二百八十八石余を領した。(郡山藩初代、城主となる)優れた文人で、画技は生前中に画人伝に名を列ねたほどであり、和歌は父吉保と共に北村季吟や霊元上皇の選を受けている。延享二年(1745)九月東京桜田幸橋の上屋敷で没。東京月桂寺に葬られる。 拝殿は割拝殿、本殿は一間社流造。 |
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| ※柳澤養魚場 植槻町にあった金魚養殖の試験場兼研究所。明治33年柳澤保恵が掘之側(植槻町付近)に約1,000?余の養魚研究所を設立した。 主な目的は金魚の寿命を調べることであった。保恵は30年間の経験では23年間は生かせ得ると、著書に書いている。この研究は遠方からの参観者が多く、大正5年には東京から柳田国男、同じ年に、サンフランシスコの「日本金魚会社」の邦人社員を始め、外人客が多数来ているが、昭和に入って規模が縮小され、柳澤文庫の前に移り、その後長らく形だけ残っていたが同40年ごろ今の庭園に造成された。なお、支配人としてのちに柳澤神社の神官になった旧藩士出身横田貞憲が長年勤務していた。大和郡山市における金魚養殖の由来は、享保九年(1724)に柳澤吉里が甲斐の国(山梨県)から郡山へ入部のときに始まると伝えられる。近年は都市化に伴い生産量は減少したものの、養殖農家約100戸、養殖面積約約140haで、年間金魚8,000万匹、錦鯉約600万匹が生産されている。 |
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